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3.11 ━ あれから1年を振り返る。

3.11東日本大震災の発災から1年が経ちました。
1年の歳月の中で、僕は、あの時何をし、何を考えたのか。どう生きてきたのか。
この場を借りて振り返らせて下さい。
                                                              

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今思えば、3.11が起きてから2ヶ月という期間に、3/25宮城県仙台市、4/22岩手県陸前高田市、5/6長野県栄村と、依頼されたり、また自主的に被災地に足を運んだけれど、その時はただただ無我夢中で何かしなきゃ居られない気持ちに駆られていた気がします。

それは、被災地の人に対して何か出来ることが無いかということはもちろん、情報が錯綜し、部分的な情報が全体のように扱われたり、その逆もまた然りな中で、自分自身で確かめたいということもありました。それは、どのメディアがどうとかって話じゃなくて、媒体(メディア)を介する情報である以上、何かが削ぎ落とされ、また何かにフォーカス当てられているからです。だから、現場を自分自身で知らなくてはという思いがありました。そして同時に、自分の本懐である「音楽を通して、人の情動に訴えかける」という事がこの最悪の事態をちょっとでも上向きに出来る可能性、もしかしたら魔法のようなちからを持っているのでは無いかと、そうならば何か出来ることがあるのではないかと思案していました。

しかし、いざ現地に行ってみると想像を圧倒的に越える壮絶さで、被災者の方に面と向かって話をしようとすると、何て言ったらいいのか、自分が思いつく限りの言葉を思い浮かべてみるんだけど、全てが表現にそぐわない。もちろん、被災地の状況はテレビ等を通して知ってはいたけど、何も言葉が出なかったことを今でも覚えています。

特に、単身、陸前高田市教育委員会にノートパソコン40台と通信カードを届けた際は、届け先の教育委員会のIさんという方に最初に会って挨拶しようとしても、本当にIさんの、やり場のない悲しみに耐えようとしながら笑みを浮かべようとなさる形容しがたい目を見るだけで何も言えなくて、「すいません、、、、、、パソコンを届けに来ました、、、、、」しか出て来ませんでした。もう少し気の利いた言葉は言えねーのかよ!と、自分が馬鹿らしく思え、今でも後悔の念があります。

さて、ちょうどその頃の東京での僕の周辺と言えば、表現し伝える、エンタテインメント的なものに対する自粛と渇望の2極に割れた世論の狭間で、表現して伝える仕事に従事する人たちは、本当に辛かったと思います。僕自身、震災の影響で吹っ飛んだ仕事もありました。

そんな中の4月末、陸前高田へ行った直後、塩屋俊氏から呼び出され、大手前大学という関西にある大学が震災復興支援のためのミュージカルを企画しているので、音楽を担当してくれないかという依頼をいただきました。この時に「俺はこの作品に命懸けで臨もう」と決心した事は、今でもよく覚えています。

それが、後の、震災復興支援ミュージカル「あの空をこえて」という作品で、阪神淡路大震災から復興を成し遂げた大学と町だからこそ伝えたい事があるというコンセプトでした。


その後、震災から3ヶ月くらい経つと、被災地支援のためのエンタテインメント活動が組織だって行われ始めるようになりました。もちろん、それまでもゲリラ的に避難所を訪れて…みたいな事は少なからずあったと思いますが、ようやく被災地支援のために表現を生業とする人たちが力を発揮できるフェーズになり始めたという事だったのだと思います。しかし、そんな中でも、僕は作ること専門で演者ではないですから、まだずっと、あの時言えなかった言葉を探し続けていました。

ミュージカルの仮のシナリオがまとまり、具体的な音楽の制作がスタートしたのはおよそ8月。シナリオには何度も目を通しましたが、主人公を中心に音楽が好きでたまらない若者たちの話で、まるで、僕がずっと悶々として言葉に出来なかったことを代弁してくれるかようなシナリオでした。他のドキュメンタリ映画やWEBコンテンツの仕事と並行しながら、合間をみては被災地へ行ったり、東京で開催の復興支援シンポジウムにUSTREAM中継スタッフとして協力したりの中でしたが、もう時間の流れをあまり覚えていないほどノンストップで突っ走りました。初演につき、シナリオのブラッシュアップ・芝居の稽古・演出の詰め・楽曲制作は全てがほぼ同時に進行していましたから、尺を計るためにひとりで読み合わせをしながら作業をしていると、物語に自分がシンクロしてしまい、涙が溢れ出て来るんですね。泣きながら台詞を読むのにあわせて鍵盤を弾く、そんな感じでシーンに当てる劇伴を書いたことも何度もありました。

そして、2012年1月17日(火) 17年前に阪神淡路大震災が起きたその日、好評のうちに公演を終えることができました。出演者の皆さんの頑張りはすでにこちらに書いた通りです。


さて、公演を終えて2ヶ月経った今、再び1年前のあの被災現場に戻ったとき、少しは気の利いた事が言えるのか…は、やっぱり正直、未だにわかりません。そして、自分の無力さを痛感します。

ただ、ひとつ、強く思うのは、「亡くなっていった音楽が大好きで仕方なかった人のぶんまで、俺はやる。」「愛する人や物事があったはずの人のぶんまで、俺は頑張って生きる。」ということです。それが、残された僕たちが、3.11東日本大震災で様々に犠牲となった人や人の志を追悼供養する、微々たることかも知れませんが、ひとつの手段になり得るのかなと思って止みません。


地震に、津波、だけでなく、原発事故まで併発したことで、まだまだ復興が進むどころか、始まらない所の人たちもいます。まだまだこれからです。等身大で構わないと思いますから、今一度、被災した人やその志を、自分の事として捉え直してみませんか?


ちょっと仰々しいですが、僕のプロフィール(biography)のページにも書いてある、僕が信じる音楽コンセプトを最後に記して、僕はまた1年精進しようと思います。





音は独りではいられない。
だから、音は自ら境界線を越えていかねばならない。
「心」に支えられた「音」は「意」となり、境界線を越えてゆく。




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