長野県栄村に行って来ました。
長野県栄村は、2011年3月12日午前3時59分、震度6強の地震に見舞われながらも、
前日に発生した東日本大震災と群発するその余震、そして津波や原発事故のニュースの中に
埋没してしまった、「忘れられた被災地」と呼ばれる地域です。
早く自分の目で状況を確認したかったのですが、3月、4月となかなか都合が付かず、
ゴールデンウィークに、今ぞと言う事で現地入り。
夜中に関越道に乗ってSAで車中仮眠をとり、早朝から終日視察をして、
その日に帰って来るスケジュールでした。
現地の様子を撮影してきたのですが、
これまた映像を編集する時間があまり無く、報告が遅くなっちゃいました。
余力の範囲で、ある種、広義での「情報ボランティア」のつもりで作った映像ですが、
よろしければ、ご覧ください。
【After 3.11】長野県栄村 2011.05.06 – 1/3
【After 3.11】長野県栄村 2011.05.06 – 2/3
【After 3.11】長野県栄村 2011.05.06 – 3/3
※前回の陸前高田の映像とは違って、
試しにテロップベースではなく、ナレーションベースの補足にしてみました。
こういった映像において、補足事項が視覚から入って来るのと、聴覚から入って来るのでは
どう違うかなぁ?という実験がてらです。
さて、「忘れられた被災地」として取り上げられるようになった事もあってでしょう、
メディアの取材クルーも何組か見かけました。
ただ、村民のひとに「東京から来た」と言うと、
遥々来てくれたんだねというだけでなく、知ってたんだ!?という反応が強かったです。
以前行った、仙台とも陸前高田とも違う被災地事情がありました。
程度の比較ではなく、津波の被害というのがどれだけ異質か、ということを実感。
避難所暮らしをしていたおじいさんに許可を取ってインタビュー撮影をさせて頂きましたが、
他にも、何人かの村民の方にお話を伺うと一様に、津波にあった地域を心配していました。
ご本人たちも被災されているんだけれども。
個人的な感触ですが、
あんなに大変な被害に遭われた所があるので、
支援を求めるのはちょっとはばかられてしまう…
そんな気持ちがどこかにあるのかな?と思えたりもしました。
もちろん、撮影してきた映像を観て頂ければわかる通り、地域の中でも被害が様々。
だけれど、家が倒壊したり、立ち入り制限になっている方にとっては、
生活が大変なことになってしまったのは、同じなんですよね。
なお、長野県栄村は農業と林業以外に主立った産業は無い模様。
農地や山林自体が地震被害を受けていたり、そこへのアクセスの安全性も
まだ担保される程に復旧されていなかったりと、復興に掛かるコストも
村の経済規模を遥かに越えてるでしょう。
また、我々、変に映像の刺激に慣れて来てはいないだろうか?という事も考えさせられました。
「3.11以前なら、この栄村の映像を観てどう感じただろうか?」
「視覚的な悲惨さという刺激に対して、何だか鈍感になってはいないだろうか?」
良い、悪いではなく、ちょっと考えてみて欲しいところです。
やはり、僕は冒頭の方で書いた通り、
津波被害と地震被害は、どっちがしんどいというものではなく、
両者は異質なものだということをはっきり伝えたいのです。
そしてこのことは、
東日本大震災の被災地すべてが”津波の爪痕の光景”というわけではない、
被災地の中でも津波に襲われた所とそうでない所があって、
被害も、必要な支援もそれぞれ多様であることを
把握しておかなければならないことを改めて想起させます。
震災から2ヶ月以上が経ちましたが、本格的な復興はこれからです。
それに際して必要な支援は、これからもっと多様化するでしょう。
お見舞いの心が本質を逸脱して変な自粛ムードにつながってしまう事は避けなくていけませんが、
やはり、被災地と、被災地にいる人たちのことをどうやって継続支援してゆくかは
最初っから「忘れられた」と称された地域を訪れることで、深く考えさせられました。
# 2011年8月12日追記
この投稿から3ヶ月後に、もう一度、栄村に伺いました。
その時の様子はこちらに写真付きで報告をUPしています。
https://yosukeikeda.com/blog/archives/3929
併せて、チェックしてみて下さい。