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群馬県南牧村 : 話題の世界遺産や大河ドラマの舞台の一歩裏路地へ。

 
 
 
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」も今週末で最終回ですな。
さて先日、群馬県南牧村というところへ行ってきた。南牧と書いて、なんもくと読む。


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道の駅なんもくからのぞむ南牧川



昔、小学校の社会科で、日本一標高の高い駅は、JR小海線の野辺山駅だ、その駅があるのは長野県南牧村だ、と習った記憶があるが、そっちはみなみまき村。こっちはなんもく村。でも、県を跨ぐこれらの2つの自治体、結構近いんだよね。それぞれ町村合併によって生まれた自治体だけど、今調べている範囲では、不思議なことに、何か特別な所縁があるようなことは無さそうだ。


さて、なんもく村は、2012年の統計によると、老齢人口割合は57.1%と日本一高く、かつ、幼少人口割合はわずか4.0%で日本一低い。つまるところ、日本一少子高齢化が進む過疎地域。民間シンクタンク「日本創成会議」が発表した消滅可能性自治体の中で最も消滅可能性が高いとされている限界地域である。

中には、「群馬県なんて関東地方だし、そういう意味では東京からも遠くないのに。もっと大都市圏から距離が離れた自治体はたくさんあるし、そういう自治体のほうが過疎化が進んでるのでは?」と思う人もいるだろう。しかし、そう単純な話でもないのだ。




さて、なんもく村の場所はこんなところ。

南牧村 広域マップ

アップしてみると…

南牧村 地形マップ

衛星写真でみると…

南牧村 衛星写真

山山山山山山山山々々々………



東京から車で2時間、関東平野と盆地からなる長野県を隔てる山岳地帯の中にある峡谷の村。北関東名物”からっ風”を生む山あいの谷に人々が住んでいるその環境は、まさに「風の谷」とでも言うべきか。
2015年5月現在、村民2,161人(1,091世帯)が、村を横断する南牧川と、それに沿った県道沿いに、いくつかの集落をつくって暮らしている。


この地形が、現在に至る超過疎化もふくめた村の歴史におおきく影響している。


しかしその影響とは、峡谷の地形ゆえに人の住むところが少ない…などというような単純な話ではない。実際、磐戸村、月形村、尾沢村の3村が合併し、なんもく村が誕生した1955年は人口は10,000人を越えており、さらにそれ以前の3村の人口は最盛期で20,000人近くが暮らしていたらしい(村の方談)。

その地形がもたらした影響とはずばり産業に対するものである。


この山あいの急斜面の土地では田んぼが作れず、昔から稲作以外の農業や産業の土地だった。古くは江戸時代、幕府御用達だった砥石、和紙の原料である楮(こうぞ)、そして、明治から昭和にかけての養蚕、そして、蒟蒻と林業で栄えた地である。


特に、蒟蒻については、なんもく村は日本の蒟蒻生産発祥の地であり、現在の「蒟蒻王国群馬」の出発点となった村なのである。(あのこんにゃくゼリーで有名なメーカーも群馬県の企業)

昔は、蒟蒻は、水はけのよい急斜面でしか栽培が出来ず、さらには寒さにも夏の日差しにも弱い作物だった。しかし、なんもく村にはほぼ自生に近い形で蒟蒻が育っていたような、蒟蒻のための土地といっても過言ではない環境だった。

それ故、江戸中後期、常陸国久慈郡諸沢(現、茨城県)の殖産家である中島藤右衛門(1745-1825)が開発した蒟蒻の乾燥・製粉技術──その技術により腐りやすい蒟蒻芋の長期保存と軽量化に成功、水戸藩の特産物となるまでになっていた──そんな技術が明治時代前期になんもく村に伝わり、急速に蒟蒻栽培が栄えることとなった。当時はその栽培の難しさゆえに、蒟蒻は「灰色のダイヤモンド」と呼ばれ、高値で取引されており、なんもく村では、村の急峻な山肌に石垣で段々畑が作られ、天まで届くと称されるほどに山の頂上まで蒟蒻畑が広がっていたそうだ。

なお、蒟蒻は数年栽培すると土地が痩せてしまうため、痩せた土地は杉を植林し、林業に転用していたそうだ。「灰色のダイヤモンド」ゆえに、この時代の村の蒟蒻農家は大変儲かっていたそうで、現在、残っている古民家はかなり立派な屋敷、いわゆる「蒟蒻御殿」も多い。そんな稼ぎを求めて、なんもく村に移り住んで来る人口も多かったという。


また、前掲の地図をよく見てみると気づくだろう、江戸・東京方面、つまり関東平野側に山を下ると「富岡」の町がある。そう、昨年2014年に世界遺産登録で一躍注目を浴びることとなった、あの富岡製糸場の町である。それとともに、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の後編、群馬県令となった楫取素彦(大沢たかお)と久坂美和(井上真央)が「製糸業を通して、群馬から日本を変える。世界と戦う。」と奮闘する舞台がここである。


ところで、その製糸場に質の良い蚕を卸していたのはどこなんだろう?──そう、南牧村を始め、下仁田町、伊香保町など富岡からみて山側の地域である。


前述の蒟蒻御殿だが、実は2階が養蚕のための建築仕様になっていたりする家も多い。下の写真は、改修中の古民家の2階。1階は普通の民家で、囲炉裏などもあるが、急な木の階段を上った2階はこれだ。昔は養蚕に蒟蒻に林業に…兼業で大忙しだっただろうことが伺える。改修工事中なので、何かいろいろダンボールとかあるけど(笑)



南牧村 古民家
南牧村 古民家


また、なんもく村に隣接する下仁田町にある荒船風穴が世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」のひとつとして遺産登録されているが、南牧村にも星尾風穴というものが残っている。

風穴というと、富士の風穴のようなプチ鍾乳洞的なものを想像するが、ここでは岩の隙間から吹き出す冷風を利用した蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設、室のこと。この風穴の冷蔵技術を活かし、当時年1回だった養蚕を複数回可能にしたようだ。他にも、世界遺産登録にはなっていないようだが、榛名山の方面にも榛名風穴、黒岩風穴、栃窪風穴などの存在が確認されている。


っというように、実は昔はとても栄えていたなんもく村。不利とも思える地形的特質をむしろ強みとし、多くの人が暮らしていた。
しかし、「灰色のダイヤモンド」こと蒟蒻芋は品種改良によって、なんもく村のような環境でなくとも蒟蒻栽培が可能になると、蒟蒻栽培は平野部の下仁田の方へ移っていった。また、産業革命により、製糸需要が減り、富岡製糸場が操業を終える1987年頃になると、養蚕需要も減り、今では養蚕農家はごくわずか。そんな中、養蚕技術や文化の継承の意図あってだろう、県の意向で地元の小学校で養蚕体験をし、校章旗の布地を作ったそうだ。旗を作る以前の布地を作る、凄いことだ。また一方、蒟蒻の方も、現在も本格的にやっているのはわずか4-5軒だそう。


それまでのような不利な地形こそをむしろ利点とするような産業で栄えてきたなんもく村だったが、時代の流れや進歩・進化に伴って村のおかれた環境も変容し、不利を利とすることが難しくなってしまったのだ(と、少なくとも地元の人たちでそう思っている人は少なくない気がする)。



さて、タイトルで「話題の世界遺産や大河ドラマの舞台の一歩裏路地へ。」と書いた意図はわかってもらえるでしょうか。

「日本創成会議」が「消滅可能性自治体」を発表し、なんもく村が注目を浴びることとなったのは2014年8月。富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に正式に登録されたのは同年6月のことで、折しも世界遺産フィーバーに湧いていたさなかであり、また2015年1月からオンエアされるNHK大河ドラマ「花燃ゆ」でも後半は富岡を中心とした群馬の産業振興が描かれている。

にもかかわらず、世界遺産「富岡製糸場」や「花燃ゆ」の文脈でなんもく村が語られ、知られる機会は恐らくあまりなかったのではないか?


僕がこういう話を書いたわけや、なんもく村のことを紹介したいと思った理由は、話題となっていることの背後にある文脈、それを知ると面白くて、もっと知りたくなる。その好奇心を掻き立てるものが、近いうち消滅してしまう可能性があるこの辺境の限界地域には存在する、そのことに気づいてしまったということなのだ。


今回、僕がなんもく村に行くきっかけとなったのは、友人知人仲間が昨年辺りから、なんもく村に古民家を借りてDIYで改築の手を加えながら、地域の人たちと親交を深めており、そのDIYへの便乗欲とともに田舎風景を求めての漠然とした旅行気分で、今回、彼らに同行させてもらったという経緯。しかし、ただ行くだけじゃつまらないし、地域について多少なりとも知ってから行こうと、気になったことをググってみたら、あれよあれよと興味深い情報が出てくる。そして実際、なんもく村に行って村の人に話を聞いたり、いろいろなものを見せてもらうとさらに知りたいことが出てくる。東京に帰ってきて、また調べ物をすると、さらに発見がある。もう、お宝を発掘してる気分で好奇心が止まりません。沼です。


ということで、一回行ってみただけなのだけど、なんもく村、めちゃくちゃ面白い。今、暇をみつけて調べているのは「道」と「音楽(民謡)」の切り口からのなんもく村。
また、何か興味深い情報がまとまったら、記事を書くと思います。



ちなみに、なんもく村。めちゃくちゃ星が綺麗でした。夜な夜なインターバル撮影して比較明合成した星の軌跡。


南牧村 星の軌跡



では!






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